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2000.12.17より




和宮降嫁問題


仁孝天皇第8皇女和宮(親子内親王)と14代将軍徳川家茂との婚姻を巡る一連の政治問題。皇女の降嫁は条約勅許問題や安政の大獄などで悪化した朝幕関係を融和させるため、大老井伊直弼の下で構想され、直弼暗殺後、公武合体政策を推進する老中久世広周・安藤信正によって万延元年(1860)4月、正式に奏請された。和宮の異母兄にあたる孝明天皇は和宮が既に有栖川宮熾仁親王と婚約していたことを理由に一旦拒絶したが、老中側の工作や侍従岩倉具視の建言もあって、条約破棄・攘夷実行などを条件にこれを承諾し、文久2年(1862)2月11日、江戸城内で婚儀が行われた。しかし、和宮降嫁は尊王派の志士を刺激し、降嫁を強制したとして老中安藤信正は坂下門外で浪士に襲撃され後に失脚、また朝廷内部でも久我建通・千種有文・岩倉具視・富小路敬直ら公武合体派の廷臣が幕府から賄賂を貰って策動したとの批判を受けて追放されたため、反幕派が勢力を増し、降嫁による朝廷との融和、権威回復を図った幕府の目論見は失敗に終わった。
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